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3話. 30日間の選択

Author: 6jay
last update publish date: 2026-09-24 18:15:47

「公開されている財務資料だけで、そこまではわからないはずです」

「債権を買う前に調査した。社員の退職金と取引先への支払いを、君が優先していたことも、その過程で確認している」

「それで? 感心したから、返済を待ってくださるんですか?」

「君を褒めに来たんじゃない」

蓮の声は、むしろ静かになった。

「立て直す価値があるから来た。リュヌにも、君にも」

紗月のペン先が、書類に小さな点を残した。リュヌと自分を同じ重さで並べる、その言い方が気に障った。

そこで美緒が口を挟んだ。

「社長。債権の返済と賃貸借の件を併せてご相談にいらしたのでしたら、先に条件をお聞かせください」

蓮が橘に目配せした。黒い革のファイルが机に置かれた。

「個人で借りた高金利の債務は、俺が消す。リュヌには緊急運転資金の投資審査を始める。結論が出るまで、このビルを出る必要はない。住んでいた家も、今すぐ明け渡さなくていい」

条件だけを聞けば、救いの手だった。

紗月はファイルを開かなかった。

「見返りは?」

「30日」

「どういう意味ですか?」

「麻布台の俺の家で、一緒に暮らしてほしい」

社長室が静まり返った。

美緒が、あからさまに蓮を見た。正気なのか確かめるような目だった。

蓮は黒いファイルを紗月へ押しやった。

「公の場に、3回、恋人として同伴してくれ。出回っている政略結婚の噂を、片づけたい」

「女性なら、ほかにいくらでもいるでしょう」

「必要なのは君だ」

蓮の言葉には、一切の回り道がなかった。

そこで初めて、紗月は契約書を開いた。債務免除、投資の検討、賃貸借に関する猶予。目がくらむほど有利な条項の下に、同居と恋人役の文字が並んでいる。寝室を別にすることや、身体への接触に関する文言も見えたが、細かくは読まなかった。

「断ったら?」

「必要な猶予期間が過ぎたら、正式な手続きを進める」

「結局、追い出すということですね」

蓮は即答しなかった。書類に添えていた手を、膝の上に下ろした。

「どんな答えでも、今日いきなり路上に立たせたりはしない。明日の午前中まで、考える時間はある」

「ご親切に」

「君が覚えている俺が卑怯だったなら、その代償も契約書に入れればいい」

8年前、最後に耳にした噂がよみがえった。

蓮は鷹宮直哉の出資を受け、大学を去ったのだと。家の騒動が起きた日、キャンパスを歩き回って捜しても、ついに会えなかった男。

紗月は契約書を閉じた。

「私に見下されたと思って、こんなことをするんですか?」

初めて蓮の目に感情が浮かんだ。8年前の傷が、薄い亀裂からのぞいた。

「君が俺をどう思っていたかは、8年前に十分思い知った」

「それでも、一緒に暮らそうと?」

「だから、一緒に暮らしてほしい」

蓮は時計を見ずに返事を待った。急かすことも、説得することもない。その揺るぎなさが、紗月にはどんな圧力より重かった。

背後のガラス壁の向こうで、社員たちが働いていた。来月の給料を心配しながらも、自分が戻るまで席を守ってくれた人たち。

デザイン室のハンガーラックには、まだ世に出ていないリュヌの秋が掛かっている。

紗月はファイルを手に取った。

「検討はします。引き受けるという意味ではありません」

「明日10時。直したいところがあれば、直接持ってきてくれ」

立ち去りかけた蓮が、扉の前で止まった。

8年前のように、目はそらさなかった。

「桐谷紗月。自分の家を出るか、30日間、俺の家に来るか。選んでくれ」

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